あれから季節は巡り、暫くの月日が経ち、僕は平和に暮らしていた。
そう、暮らしていたのだ。過去形。
「ただいまー」
「おうっ、お帰り!」
僕の家には、一人の同居人が住んでいた。
赤いタンクトップの上に、皮のジャケット。下は青い使い古されたジーンズパンツ。
不貞不貞しいまでに筋肉質で、身長は二メーターに届かんばかりの大男。
いや、不貞不貞しいのは躰では無くその顔か。
諦めると云う事を知らないような、常に不敵な表情を浮かべた顔。
彼は生命力と云う言葉を具現化したような、暑苦しい男だった。
だがしかし幽霊。そう、幽霊なのだ。
暑苦しく、生命力に溢れた幽霊。何と云う矛盾した存在。
「……で、何してるんだ?」
「筋トレに決まってんだろ」
幽霊に筋トレ、こんな組み合わせもあるのか。
いや、無いだろ。無い無い。物理的に無い。
いやいや、そもそも幽霊も物理的に無い。有りか無しかで云えば確実に無しだ。
って事は、もしかして幽霊も筋トレすれば筋肉が付くのか?
いやいやいや、そんな馬鹿な……。
「幽霊に筋力トレーニングが必要あるか!」
「ええ? でもお前、もし筋肉が落ちたらどうするんだよ」
別にどうもしない。
「筋肉ってのは、使えば太くなるし使わないと細くなる。ずっと足を動かしてない人間は、筋力トレーニングをしないと歩けないだろ。お前、そうなったら困るだろっ」
「生きてる人間が云うなら納得出来るが、幽霊に云われるとどうにも納得出来無いのだが」
「何だよそれ、幽霊差別かよっ」
「差別と云うか、区別だろ……。冷静に考えて、幽霊に筋肉が付くとか落ちるとかおかしいから……。多分、百年経ってもそのままの筋肉量だから……」
「もしそうだとしても、そうでない可能性があるのなら俺はそれに賭けるぜ。備え無ければ筋肉無し、だ」
「何だその格言……」
訳が解らない。死者には生者の論理が通じないのだろうか。
それ以前の問題な気もする。
「それで、何か思い出せたのか?」
「いや、それがさっぱり」
頭が痛い。
彼は記憶喪失の幽霊だった。
何を想って死んだか、何が原因で死んだか、自分は誰だったのか。
その一切を憶えていないのだ。
だから未練を晴らし消える事も出来無いし、こうして僕の家に居座っている。
僕と話していれば、何が心残りなのか解るかも知れないと云って。
「それで、自分の名前を思い出そうともせず筋トレか……」
「仕方ねえじゃねえか、お前が帰ってくるまで暇だったんだから。筋トレぐらいしてたってバチは当たらねえだろ。それに俺、筋肉動かしてからじゃねえと頭が回らないんだ」
脳みそまで筋肉なのかこの男は……。
「つまり、今は自分が何者かを思い出す為の下準備をしていた、と」
「ああ、そうなるな」
「……それで、何か思い出せそうか?」
「悪い、さっぱりだ」
僕はそれを聞いて、溜息を一つ。
今度の同居人とは、長い付き合いになりそうだ。